気づけばこのブログも、なんと一年間も休眠状態でした…orz
そろそろキアイを入れて復活を目論みたいと思い、久々の投稿となりました。
書いている本人にエネルギーがないと、なかなか続かないですね。これからは形にこだわらず、もっと自由に書いていけたらいいなと思います。
さて、今回は「小説」と「映像」についてです。
ここ数年、私が特に気に入っている小説が映画化され、ビジュアルでも楽しめるようになりました。
大好きな作品ほど、映像になった時点での「ギャップ」が悩ましいと感じる方も多いかと思います。
私としては、「映像のプロ」の方々が小説の世界にどのようにアプローチしているのか?
演出・脚本に携わるスタッフの「意図」を読むことに集中して観ることにしています。
2019年最後の読書会は「今年のベスト本」というテーマで主催したのですが、私は、同年に映画が公開された、恩田陸・著『蜜蜂と遠雷』を取り上げました。
【以下、かなりネタバレ傾向になりますので、あしからず】
プレゼンの内容は、小説と映像の関係について。
『蜜蜂と遠雷』は、若手のピアノ奏者が参加する国際コンクールを舞台にした群像劇です。
一次予選・二次予選・本選とコンクールが進行するなかで濃密なドラマが展開するお話ですが、実は、本の中で本選の描写はわずか。
それまでのち密な描写が積み重ねられた様からすると、あっさりと終ってしまいます。
何しろ、文庫で上下巻900pを越える分厚い本ですから、作者も物語の「重心」を考えつつまとめたようですね。
ただ、2週間にわたるコンクールの展開に注目された方は、ちょっと消化不良だったかも…(^-^;
こんな濃密な小説を映像化するにあたり、「映像のプロ」の方のこだわりが一番感じられたのは、「空白の本選」の描写を丹念に作り込まれていたこと。
『小説が表現しきれなかった部分を、あえて映像で見せてやる!』ぐらいの勢いで、映画はラストに向かって怒涛の如く流れていくのです。
そんな割り切りに、映像のプロとしての矜持すら感じた次第。
ラストに向かって映画のヤマを築き上げるのは演出のセオリーですし、そこから逆算して、物語全体の「設定」も換骨奪胎して組み直すぐらい差異があったように思いました。
(この項つづく)
加藤浤和 拝