映画「蜜蜂と遠雷」に見る、小説と映像の関係 その2

文庫で上下巻900pを越える濃密な物語、『蜜蜂と遠雷』を2時間という枠で表現するのは無理な話。

そこで、映画スタッフが物語の「キー」と定めたのは、かつての「天才少女」、栄伝亜夜(えいでんあや) でした。

小説は群像劇らしく、他の登場人物にも細やかにスポットライトを当てていますが、ひとりの登場人物に的を絞る判断は実に的確だったように思います。

女優さんを中心に据えた方が、映画として見栄えがするかと…(;・∀・) 

この作品が「物語の重心」をあえて変える手段として、映画ならではの「表現方法」を存分に生かしていることが実に新鮮!
映像のプロの底力を感じたものです。


小説版の感想の中には、話が進むにつれて、「天才たち」ばかりが集う面にリアリティを感じられない、というご意見も耳にしたことがあります。

小説の栄伝亜夜も、過去の恩讐を序盤に振り切ってコンテストに集中する展開となります。

一方で映画では、彼女の葛藤をラストの本選まで引っ張ることで、映画ならではのドラマチックな展開を上手に演出することに成功したように感じられました。

結果として、小説の亜夜がピアノにイノセントな印象が濃い半面、映画の亜夜は暗めの映像の効果に比例して、かなりダークな印象を残していたのは実に対照的。

ある意味、女性の多面的な表情を演じるには、松岡茉優さんというキャスティングは当たりだったかと。。。

正直申し上げると、私にとっては、そこが松岡茉優さんの苦手な部分でもあるのですが…アンビバレント( ̄O ̄;)ゞ
(この項おわり)

加藤浤和 拝

一年ぶりのごぶさたでした

気づけばこのブログも、なんと一年間も休眠状態でした…orz 
そろそろキアイを入れて復活を目論みたいと思い、久々の投稿となりました。

書いている本人にエネルギーがないと、なかなか続かないですね。これからは形にこだわらず、もっと自由に書いていけたらいいなと思います。

さて、今回は「小説」と「映像」についてです。

ここ数年、私が特に気に入っている小説が映画化され、ビジュアルでも楽しめるようになりました。

大好きな作品ほど、映像になった時点での「ギャップ」が悩ましいと感じる方も多いかと思います。


私としては、「映像のプロ」の方々が小説の世界にどのようにアプローチしているのか?
演出・脚本に携わるスタッフの「意図」を読むことに集中して観ることにしています。

2019年最後の読書会は「今年のベスト本」というテーマで主催したのですが、私は、同年に映画が公開された、恩田陸・著『蜜蜂と遠雷』を取り上げました。

【以下、かなりネタバレ傾向になりますので、あしからず】




プレゼンの内容は、小説と映像の関係について。

『蜜蜂と遠雷』は、若手のピアノ奏者が参加する国際コンクールを舞台にした群像劇です。

一次予選・二次予選・本選とコンクールが進行するなかで濃密なドラマが展開するお話ですが、実は、本の中で本選の描写はわずか。
それまでのち密な描写が積み重ねられた様からすると、あっさりと終ってしまいます。

何しろ、文庫で上下巻900pを越える分厚い本ですから、作者も物語の「重心」を考えつつまとめたようですね。

ただ、2週間にわたるコンクールの展開に注目された方は、ちょっと消化不良だったかも…(^-^;

こんな濃密な小説を映像化するにあたり、「映像のプロ」の方のこだわりが一番感じられたのは、「空白の本選」の描写を丹念に作り込まれていたこと。

『小説が表現しきれなかった部分を、あえて映像で見せてやる!』ぐらいの勢いで、映画はラストに向かって怒涛の如く流れていくのです。
そんな割り切りに、映像のプロとしての矜持すら感じた次第。

ラストに向かって映画のヤマを築き上げるのは演出のセオリーですし、そこから逆算して、物語全体の「設定」も換骨奪胎して組み直すぐらい差異があったように思いました。
(この項つづく)

加藤浤和 拝